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トルコ・イスタンブルに流学中の末澤寧史(すえざわ・やすふみ)のブログ
by swetching
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戦争の重石を背負う友達の話
今回取上げるマイルベック・ワハポフさん(26)は、チェチェン共和国から戦争を避けてトルコに渡ってきた。現在は、イスタンブルのボアジチ大学で経営学を学んでいる。

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彼と出会ったのは、とある食事会の時。テンションの高いトルコ人とは対照的に、どことなく静けさをたたえているのが印象的だった。どうも雰囲気が大人びている。話を聞いてみて今思うのは、その深い静けさは潜り抜けてきた戦争の経験から来るのではないか、ということだ。まるで重石を背負うように…。

正直なところ、チェチェンという国についてぼくはほとんど何も知らない。恥ずかしながら、話をそこから始めさせてもらった。

まず、チェチェンという国そのものについて聞かせてもらいたいんだけど、たとえば地理的にはどんな感じ?日本では海と山の風景が特徴的だったりするけど。

チェチェンは、山地と平地からなっている。平地の部分に都市があって、大きな都市は5つある。首都はグロズヌイ。山には森があるだろ。それでロシアとの戦争の時にはそこからレジスタンスが抵抗をするんだ。ひとがどこにいるか分からないから簡単には抑えることができない。それに対してロシアは山の木を切り倒したりする。平地は逆に抑えられやすい。今もロシア軍が駐屯している。

そうか…。今、チェチェンには人口はどの位いるの?

94年のカフカス戦争前には100万人位いたと言われている。ロシアは80万人と言うけど、実際は5、60万人ぐらいしかいないと思う。人口の半分が、戦争で死んだか、外国に逃れた。

チェチェンのひとって、どういう感じ?

宗教は全員ムスリム。だけど、イスラームに関する知識は他の地域に比べて少ないと思う。ソ連時代コミュニズムの支配下にあったから、空白がある。
それから「ワッハービ」というアラブ系の国からやって来た奴らが、儀式なんかを「これが正しいイスラームだ」と言って教えようとした。だけど、民衆はそれを受け入れなかった。
チェチェンのムスリムは、そもそもスーフィズムの影響が強くて土地土地の慣習的な儀式や信仰が多い。たとえば、結婚式では男女が一緒になって踊ったりもする。

マーシャル・アーツが盛んなそうだけど?

柔道、空手、ボクシング、レスリングなど、スポーツは好きだね。自分も1,2年キックボクシングをやっていた。忙しくてやめちゃったけどね。

若者は?

戦争のせいで自分の世代は教育レベルが低くなってしまった。「失われた世代」という言われ方をするけど、ずっと戦争があってまともな教育を受けられなかった。新しいテクノロジーから遠ざかってしまった。戦争のせいだよ。


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50年ごとの民族の重石

だいたい50年周期でチェチェンには重大の出来事がある」とマイルベックは言う。1785年のシェイフ・マンスールの乱。1834年のシェイフ・シャーミルの乱。90年代にはウラジカフカス鉄道敷設。1917年にロシア革命。1944年に強制移住。90年代にまた戦争である。とりわけ近現代でトルコへのチェチェン人の大規模な移動が行われたのは、1864年が始まりだ。



1864年に移民がトルコに来るよね。

1834年に、シェイフ・シャーミルというチェチェンの指導者に指揮された反乱が起きた。それが25年間続き、1864年にロシアとオスマン朝の間で条約が交わされた。チェチェン人の内、2万5千人がオスマン朝に移民を行ったと言われている。オスマン朝は、イスラームの国だし、人びとは暮らしがよくなると思って喜んで移住した。ただ、裏にはロシアは抵抗するチェチェン人を追い出したいという意図があったし、オスマン朝はオスマン朝で、チェチェン人をロシアとの国境沿いのに緩衝地帯に定着させたんだ。暮らしも楽ではなかったらし。言語も分からなければ、食べ物もなく、母国に帰ろうとするひとたちもいたそうだ。

それから、第2次大戦後の1944年、チェチェン人とイングーシ人がナチス・ドイツに協力したという疑いをかけてスターリンが強制移住政策を行う。

全チェチェン人が、カザフスタンに強制移住された。
自分の場合は祖父が1939年に送られた。牛や羊など家畜を多く所有していたかららしい。父や母はそこで生まれた。うちの家族はまだましで、食料もあったし、仕事も見つかり暮らしが成り立った。
44年に、送られた人々は真冬の2月に荷車に乗ってきたんだそう。半分は到着する前に死に、着いてからもたくさん人が死んだらしい。カザフスタン人も助けてはくれなかった。ナチス・ドイツに協力した非国民というレッテルを貼ったんだ。

それでも帰って来られた。

それからも大変さ。1953年にスターリンが死に、フルシチョフの時代になると戻ることができるようになった。(1956年に始まるいわゆるスターリン批判。民族追放が批判された。:筆者註)うちの家族は61年に戻ったけど、自分たちの家にはロシア人が住んでいた。そして、自分たちの家を買い戻さなければならなかった。


戦争の重石を背負う友達の話_a0088499_1153118.jpgマイルベックの 重石

マイルベックもまた戦争によって移住を余儀なくされたひとりだ。チェチェン共和国はソ連崩壊後の1991年に独立が宣言されるが、ロシアが「憲法秩序の回復のため」として94年に介入。その後、和平合意が結ばれ、2001年に独立の問題が協議されることになるが、99年にチェチェンの一部勢力がダゲスタンに侵攻したことなどを理由にロシアが侵攻。この2次に渡るチェチェン戦争以来、死者は20万人以上と言われ、故国を離れざるを得ないひとびとも多かった。彼も、そうして今トルコにいる。



94年の時の戦争はまだましだったんだ。情勢が安定しているときは、平地の家にいて、戦争が激しくなると山のほうに住んでいる親戚の家に家族で疎開して、というのを繰り返していた。食べ物はあったしまあなんとかなった。

それから97年に働き始める。

高校を卒業してから、グロズヌイでカフェを開き、食料品の卸売りをしていたんだ。それから2年たったらまた戦争が始まった。その時は稼いでいたのが自分だけだったから大変だった。2000年は、四六時中防空壕にいたし、パンすらなかった。小麦を自分たちでひいて小麦粉をつくったりしてね。それが真っ黒なんだよ。それでも食べて腹を壊したりしたね(笑

それからトルコに移るんだよね。

チェチェンでは、働ける状況でも、教育を受けられる状況でもなかった。それで店を売って逃げることになったんだけど、チェチェンを出るときには、手元には30ドルしかなかった。それでモスクワ行きの電車のチケットを買った。モスクワにはおじの家があって、そこでチケット代をもらってトルコに来ることになった。

それからは、どのようにしていたの?

それからはトルコ人やチェチェン人のつてづてを頼って転々とした。チェチェンにいるよりはましかもしれないが、生活はきつかったよ。塗装屋で働いたりしたね。寮や、ホテル、工場の宿舎に泊めてもらったり。そんな暮らしをしながら大学に行く準備をしていたんだ。トルコ人は、親切だった。つらい状況にいると、アドバイスをしてくれたり、助けたりしてくれる人が常に周りにいた。

言語は困らなかった?

それがね、滞在してから5,6ヶ月で新聞が読めるようになったよ。戦争の情勢をフォローしなければならなかったからね。

チェチェンの現状をどう見てる?

人が入れないから情報がほとんど出てこない。それで何もないように見えるけど、小規模な衝突は時どきある。有名人が訪れたりして、安全だと見せようとしたりしているね。いまは全く先が読めない。しばらくは安定しないと思う。

独立が一番良い解決策だと思う?

もちろん独立できるに越したことはないけれど、今は無理だと思う。それを運営できる技術がない。ロシアがいなくなると異なる見解がぶつかりあってアフガニスタンのように混沌になるのではないかと思う。そういう運営ができるように教育のレベルをまずは高めなければならない。

今年、卒業だよね。


あと残り4コマ。

大丈夫?

なんとかなるでしょう(笑

いつかチェチェンに帰りたいと思う?

もちろん。でも、今はまだ帰れる状況にない。ただ小さなことであってもチェチェンのために何かをしたい。いつもそう思っている。
by swetching | 2007-04-03 01:27 | アルカダッシュに聞いてみる
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